玄黄洞表紙
玄黄洞 主題:親鸞に浄土真宗を尋ねる
親鸞の主著 『顕浄土真実教行証文類』の 「総序」と「教巻」の掲示
この玄黄洞・主題は、親鸞の主著『顕浄土真実教行証文類』の 「総序」と「教巻」を軸として、親鸞が受け取った「浄土真宗」を明らかにしていく。そのため、『顕浄土真実教行証文類』の 「総序」と「教巻」を主要文献として掲示することが多いので、このホームページでもいつでも見返せるように掲示しておく。当文献は、東本願寺出版の『真宗聖典(第二版)』を元版とする。
一行の26文字ほどのものは、親鸞の自釈
、表題、標挙等文。
40文字前後は、引文。
3桁の算用数字は、ページ数。②は「第二版」の意。
ふりがなは、折りを見てつける予定だが、聖典ほか文庫等の『顕浄土真実教行証文類』を求めて、読み馴染んでおかれることをお勧めする。
『真宗聖典』②159 (『真宗聖典』は東本願寺出版・第2版による、159ページの意)
顕浄土真実教行証文類序
竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、
無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。
然れば則ち、浄邦縁熟して、調達、闍世をして
逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして
して安養を選ばしめたまえり。斯れ之ち権化の仁、斉し
く苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、正しく逆・謗・闡
提を恵まんと欲す。
故に知りぬ、円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を
成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむ
る真理なりと。
②160
爾れば、凡小、修し易き真教、愚鈍、往き易き捷径
なり。大聖の一代の教、是の徳海に如く無し。穢を
捨て浄を欣い、行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく、
悪重く障多きもの、特に如来の発遣を仰ぎ、必ず最
勝の直道に帰して、専ら斯の行に奉え、唯、この信
を崇めよ。
噫、弘誓の強縁、多生にも値い叵く、真実の浄信、
億劫にも獲叵し。遇たま行信を獲ば、遠く宿縁を慶
べ。若し他た此の回、疑網に覆蔽せられば、更って復た
曠劫を径歴せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超
世希有の正法、聞思して遅慮すること莫かれ。
爰に愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の
聖典、東夏・日域の師釈に、遇い難くして今遇うこと
を得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり。真宗
の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知
りぬ。斯を以て、聞く所を慶び、獲る所を嘆ずるな
②161
りと。
『大無量寿経』 真実の教
浄土真宗
顕真実教 一
顕真実行 二
顕真実信 三
顕真実証 四
顕真仏土 五
顕化身土 六
②163
顕浄土真実教文類一
愚禿釈親鸞集
謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向有り。一
には往相、二には還相なり。往相の回向に就いて、真
実の教・行・信・証有り。
夫れ、真実の教を顕さば、則わち『大無量寿経』、是れ
なり。
斯の『経』の大意は、弥陀、誓を超発して、広く
法蔵を開きて、凡小を哀みて選びて功徳の宝を施する
ことを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、
群萌を拯い恵むに真実の利をもってせんと欲すなり。
是を以て、如来の本願を説きて『経』の宗致とす、
②164
即ち、仏の名号を以て、『経』の体とするなり。
何を以てか、出世の大事なりと知ることを得るとならば、
『大無量寿経』に言わく、「「今日、世尊、諸根悦予し姿色清浄にして、光顔魏魏とましますこと、明らかな
る鏡、浄き影、表裏に暢るが如し。威容顕曜にして、超絶したまえること無量なり。未だ曾て瞻覩せず、
殊妙なること今のごとくましますをば。唯然なり、大聖。我が心に念言すらく、今日、世尊、奇特の法に
住したまえり。今日、世雄、仏の所住に住したまえり。今日、世眼、導師の行に住したまえり。今日、世英、
最勝の道に住したまえり。今日、天尊、如来の徳を行じたまえり。去来現の仏、仏と仏をあい念じたまえり。
今の仏も諸仏を念じたまうこと、なきことを得んや。何が故ぞ威神の光、光いまし爾る」と。
是に世尊、阿難に告げて曰わく、「諸天の汝を教えて来して仏に問わしむるや、自ら慧見を以て
威顔を問えるや」と。
阿難、仏に白さく、「諸天の来りて我を教うる者有ること無けん。自ら所見を以て斯の義を問いたてま
つるならくのみ」と。
仏の言わく、「善いかな、阿難。問える所、甚だ快し。深き智慧、真妙の弁才を発して、衆
生を愍念せんとして、斯の慧義を問えり。如来、無蓋の大悲をもって三界を矜哀したもう。世に出興
する所以は、道教を光闡して、群萌を拯い恵むに真実の利を以てせんと欲してなり。無量億劫に
②165
値いがたく、見たてまつり難きこと、霊瑞華の、時あって時に乃し出ずるが猶し。今問えるところは饒益
する所多し。一切の諸天・人民を開化す。阿難、当に知るべし、如来の正覚は、その智量りがたくして、
導御したまう所多し。慧見無碍にして、よく遏絶すること無し」と。」已上
『無量寿如来会』に言わく、「阿難、仏に白して言さく、「世尊、我、如来の光瑞希有なるを見た
てまつるが故に、斯の念を発せり。天等に因るにあらず」と。
仏、阿難に告げたまわく、「善いかな、善いかな。汝、今快く問えり。善能く微妙の弁才を観察
して、能く如来に如是の義を問いたてまつれり。汝、一切如来・応・正等覚、及び大悲に安住し
て、群生を利益せんが為に、優曇華の希有なるが如くして、大士、世間に出現したまえり。故
にこの義を問いたてまつる。又、諸の衆生を哀愍し利楽せんが為の故に、能く如来に如是の義を
問いたてまつれり」と。」已上
『平等覚経』に言わく、「仏、阿難に告げたまわく、「世間に優曇鉢樹あり、但、実有りて華有ること無し。
天下に仏有ます、乃し華の出ずるが如しならくのみ。世間に仏有せども、甚だ値うこ
②166
とを得ること難し。今、我、仏に作りて天下に出でたり。若し大徳ありて、聡明善心にして仏意
を知るによって、若し妄れずは、仏辺にありて仏に侍えたまうなり。もし今問えるところ、普く聴き、
諦らかに聴け」と。」已上
憬興師の云わく(述文賛)、「「今日世尊住奇特法」(大経)というは、神通輪に依りて現じたまうところの相
なり。唯、だ常に異なるのみに非ず。亦等しき者無きがゆえに。「今日世雄住仏所住」(同)というは、普等三昧に
住して、よく衆魔・雄健天を制するがゆえに。「今日世眼住導師行(同)というは、五眼を「導師の行」と名づ
く、衆生を引導するに過上なきがゆえに。「今日世英住最勝道」(同)というは、仏、四智に住したまう、独り
秀でたまえること、匹しきこと無きが故に。「今日天尊行如来徳」(同)というは、即ち第一義天なり。仏性不
空の義を以ての故に。「阿難当知如来正覚」(同)というは、即ち奇特の法なり。「慧見無碍」(同)という
は、最勝の道を述するなり。「無能遏絶」というは、即ち如来の徳なり。」已上
爾れば則ち、此の顕真実教の明証なり。誠に是れ、
如来興世の正説、奇特最勝の妙典、一乗究竟の極
説、速疾円融の金言、十方称讃の誠言、時機純熟の
真教なり。知るべし、と。
②167
顕浄土真実教文類一
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